なーんて、誰がゆったんでしょ。
っさいわ。
って批判の声が上がると思わない?
今日の中番も終わり、閑散としすぎるフロアで、帰りがけにカバンを持ったあたいと、向かいのデスクのSさんとの会話。
あたい:「お疲れ様でーす」
Sさん:「おぅ、気ィ付けて帰れよ~」
あたい:「Sさんも魚津までの道のり、気ィ付けて下さいよ~?」
Sさん:「俺ぁいいがよ」
あたい:「???なんでですかぁ?」
Sさん:「俺ぁもう人生守りに入っとるからいいがよ~」
ここであたいの頭にクエスチョン。
人生の守りに入るって、何だろう?
はたまた逆に、攻めの体勢ってなぁに?
☆検証☆
攻める、ということはつまり積極的に挑戦すること、と解釈できる。
攻めるの対義語は守る。
ということは?挑戦しないってことなのかな。
しかしながら、何だか違う気がするのです。
人生の守り。それは「守るべきものがある」ってことじゃないかしら。
それって、素晴らしいことじゃないか。
守るべきものの存在が、働く意味になるかもしれないし、生きる糧になるかもしれないし、
人を強くするかもしれない。
挑戦し続けることは、とてもいいこと。難しいこと。
でも同じくらい、守り続けることも難しいことかもしれないよ。
守ってあげたい。
そう思える存在があると、やっぱり人は違うんだろうね。
ん?でもSさん、あたいの考えからすると、守りに入ってるから気をつけなくてもいいという理論は間違ってます。守りに入ってるからこそ、気をつけてくださいよ!