今日4月19日は私の母の誕生日。
とうとう50の大台みたいです。
今日はそんな母について話してみたいと思います。
今まで誰にもしたことのない話。
私の中学時代は反抗期の真っ只中でした。
特に母との会話は全くなく、発する言葉は「うん」「なーん」「あぁ?」「いい」くらい。
何が嫌でそうなったかは、きっと思い出せないくらいくだらないことなんだと思う。
母は当時の担任の先生に「娘とは気が合わない」とまで話していたという。
卒業が近づくにつれ、少しは改善されたけれど、和気藹々には程遠い状態。
そんな中高専に入学して寮に入る。
視野がすごく広くなって、遊びまくってた。
親の監視のないことは何て自由なんだろう。
寮も抜け出した、夜遊びもした、メル友も作った、酒も覚えた、バイトもした。
家にいたら、できなかったことだらけだったよ、きっと。
でも、いつからかバイトに精を出し始めた。地元のバローで。
必然的に毎週帰ることになる。
あれは4年の夏休み。バイトばかりしてて部屋の掃除もろくにしなかったことを怒られた。
開寮の日である。
「寮に送って行かない」と言われた。明日から学校なのに、寮に行けないのだ。
普通ならそこで謝ればいい話。
しかしそこはかわいくない私のこと、当然謝罪の意など微塵もない。
富山市に住んでいる友達(通生)に泣きついた。
氷見まで来てもらって、荷物と共に寮に送ってもらった。
それからは頑として帰らなかった。バイトのある日は汐風に泊めてもらった。
だけどそれにも限界があるので、一旦休むことにして富山でバイトを見つけた。
母の前では意地を張って生きてきた。
今思えばひどいこともいっぱいした。
就職してからは、家に帰るより彼氏の家にいる方が多かった。
それでも母は、毎週のようにちっとも上達しないメールをよこす。
「どちらにいらっしゃる?」「帰ってこないの?」「生きてるかーい」
私が夜中に帰ってきても「お帰り」と起き上がる。寝てればいいのに。
ミホちゃんがテレビに出てたんだと寝ている私に言いに来る。寝てるのに。
寮に戻っていく時も必ず見送りに外まで出てくる。別に永遠の別れじゃあるまいし。
当たり前に思ってたけど、ありがたいことだよね。
社会に出て、少しだけ世間と親の大変さがわかった気がする。
離れてみてじゃなきゃ、素直じゃない私は気付かなかった。
実家の私の部屋は、中学を卒業したころのまま。
窓際には飽きもせず、母がせっせと水をやる植物がある。
面と向かってはまだ照れくさすぎていえないけれど、
母さんありがとう。
誕生日おめでとう。
働き過ぎて体こわさんでね。
ちょうど”プチ家出”をしていたころ、ケツノポリス3が発売された。
―家に帰ろう 俺のルーツ残した部屋に
会いに行こう 俺を育て守った家に―
この曲が好きだというと「お前こそ帰れよ」と突っ込まれた。
週末はケーキを買って家に帰ろう―